Welcome to Kitakaruizawa Pension E D E N

浅間火山レース      検証ページへ
 上の写真は、浅間記念館に展示してある1955年(昭和30年)公道を閉鎖して行われた、第1回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久レース)のポスターです。
今年トヨタが世界一の自動車メーカーとなり、先駆けてホンダは二輪車のトップメーカーとして日本のクルマ(バイク)は世界中で作られ、乗られ、愛されています。
しかしながら1950年代の日本の国産車の性能は欧米にはるかに劣るものでした。
ようやく育ち始めた日本のオートバイ産業の育成を目的として、上記のレースは行われたのでした。
当時はようやくオートバイが単なる運搬の道具から、スピードやテクニック、スタイルなどを競うレースマシンとして憧れの対象となりはじめ、高原レースは大きな関心ををもってむかえられ、なんと1万人近い観衆を集めたという。
レースの注目度は高く、勝ったメーカーの製品は売り上げを伸ばし、負けたメーカーは失敗をかてに次の製品開発に心血をそそいでいったのです。
まさに社運をかけたレースであり、この切磋琢磨が日本車の性能を驚くべきスピードで向上させ、またたくまに世界に比する、そして凌駕する日本メーカーへと育っていくのです。
また、浅間を走ったライダーたちの多くがその後の世界GPや四輪ドライバーとしても活躍したことから、浅間(北軽井沢)は日本モータースポーツ発祥の地とされるのです。

1955年の第一回大会は、警察、町、県などのお目こぼし的に公道閉鎖という形で行われましたが、(さすがに制限時速を大きく超えるスピードで公然と走らせるわけにはいかなかったと見えレース結果のタイムは公表されず、トップとのタイム差のみが発表されるのみ)2回目以降の開催については公道使用は認められませんでした。
そこで、オートバイメーカーが国よりの補助金も受け浅間牧場内に専用サーキット「浅間高原自動車テストコース」を建設し、1957年、1959年に第2回・第3回のレースが開催されました。浅間の火山灰を踏み固めた未舗装のコースでしたが国内唯一のクローズドサーキットであり、浅間は日本のモータースポーツのメッカとなったのです。

レース自体の詳細については他に詳しく紹介されていますし、私自身1955年にはまだ生まれてもいませんので現在の火山レースにまつわるあれこれを書いてみたいと思います。

1.第1回浅間高原レースコースの今
当時の資料によればスタート・ゴール地点は現在の北軽井沢交差点、会場は北軽井沢グランドに設けられていたようです。グランド自体はおそらく当時のままです。北軽井沢マラソンのスタート地点にもなっています。

スタートからはゆるい上り坂国道146号線を浅間牧場入り口まで、この間は現在とほぼ同じルートをたどることができます。浅間牧場入り口を左折し場内へ浅間牧場内の特設コースを走ります。今は浅間牧場内は一般車両進入禁止なのでたどることができません。浅間牧場を突っ切り県境から国道に戻ります。こんどは国道146号を北上し浅間牧場入り口を左折します。今の火山博物館へ向かう道です。もちろん今はきれいな舗装路面ですが鬼押し出しが近づいてきたら車を止めて路肩へ出てみてください。火山灰と溶岩の往時を一番偲ばせる雰囲気があります。鬼押し出しの手前で右に折れます。牧場入り口からの道は現在も同じルートですが、右に入っていく道は今は見当たりません。現在は別荘地になっている一帯を北に向かい、今の県道北軽井沢大前線でゴールへ戻るコース全長は19.2km、というものです。
もちろん今では浅間牧場以外の国道県道は舗装されていますが、当時は火山灰や浅間石がごろごろころがる酷い道だったそうです。特に浅間牧場内の上り坂と鬼押し出し近くの溶岩むき出しのコースはライダーをひどく手こずらしたようです。
浅間高原レース発祥の地碑(セーブオン駐車場にあります)
浅間高原レーススタート地点(セーブオン駐車場にあります)
2.北軽井沢へ集結したオートバイメーカー
1955年レースの正式名称が全日本オートバイ耐久レースとなっていることからも分るように、揺籃期の日本製オートバイの耐久性能向上がこのレースの主目的であった。また朝鮮特需で雨後のたけのこのごとく乱立したオートバイメーカーも淘汰の時代に入っていた。メーカーも生き残りをかけて浅間へ乗り込んできたのだ。レースの賑わいだけでなく、各メーカーが北軽井沢に合宿所兼現地工場をつくったことからもその力の入れようがわかる。今でもホンダの合宿所は保養所浅間荘として残っている。スズキは地蔵川旅館を合宿所とし現地作業所まで建てた。(私は地蔵川旅館で生まれ5歳までここで育ったのだが、残念ながら1955年にはまだ生まれていない。)その他地蔵川旅館の隣にはヤマハの研究所があり浅間コースが閉鎖されるまでしばしばエンジニアの人が来ており、子供のころよく遊んでもらった記憶がある。またホンダの隣にはメグロが、ゴール地点の近くにはライラックの合宿所があった。ちなみに地蔵川旅館の隣にあった山楽荘は現在和食の店「広瀬」になっており、ヤマハの合宿所にもなっていた養狐園は現在ショッピングセンター「くりの木プラザ」になっている。
第1回の250ccクラスで優勝したライラック(丸正自動車)は、この勝利を大いに宣伝し売り上げを伸ばしたが、第3回火山レースの翌年には倒産し、第二回の500ccクラス優勝のメグロもやがてカワサキに吸収されてしまうのである。

ホンダ浅間荘(改装中でした)

元ライラック合宿所、廃墟になっています。
3.浅間火山コースの今
第一回浅間高原レース後、以降の開催には専用のサーキットが必要とされました。オートバイメーカーが資金を出し合い、国からの援助も受けて、群馬県の農業試験場である浅間牧場の一部を借り受け日本初の専用サーキット「浅間高原自動車テストコース」が1957年に完成しました。
その年10月に第二回の浅間火山レースが行われ、交通の便も悪い中1万5千人もの観客を集め、大いに盛り上がりました。
翌年は第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース大会が、そしてその翌年1959年には第3回浅間火山レ−ス(耐久レース)と第2回全日本モーターサイクルクラブマンレースが併せて開催され大盛況となるのですが、この大会を最後に浅間では大規模なレースは行われることなく、本来の目的である耐久テスト、寒冷地テストなどに使用されその後浅間牧場との貸借期間終了とともに閉鎖されました。
浅間牧場に返還されたコースは牧草地となり緑の草に覆われていますが、一部嬬恋村村有地であったところが、現在でもコースの名残をとどめています。
146号線から太平洋クラブゴルフコースなどへ向かう道を300mぐらい行った左にゲートがあります。その奥が浅間火山コースの跡地なのです。50年の歳月により周囲の風景はまったく違っており、当時の写真では見渡す限り火山灰の荒涼とした風景だったものが、うっそうとした林になっています。最近は嬬恋村がコースの貸し出しをしているようで、簡易トイレがありました。
浅間コースは建設当時四輪メーカーの賛同が得られずに予算が足らなくて舗装されなかった。将来的には舗装される予定であったが、メーカーの淘汰が進み資金を集めることが難しかったためついに舗装されることは無かった。国内メーカーは海外の試合へその目標を変え、鈴鹿に舗装のコースができたことなどから、浅間からレースの熱気は去ってしまったのでした。

今コース跡地を歩いてみても、50年前の喧騒を偲ばせるものは何も無く、コース両側の唐松林で当時の写真ではすぐ近くに見えた浅間山も遠くになってしまったようです。もし当時前面舗装されていたら今でもこの地にバイクのエンジン音が響いていたのだろうか、鈴鹿に見られるような賑わいがあったのだろうか、そんなことが想像すらできないほどひっそりとした林の中のコース跡でした。

入り口のゲート、嬬恋村村有地であると書いてあります。

コースの跡、火山の軽石のせいか路面はやわらかい。

ブルで整備したあとがみえます。

雨が降ったらさぞかし泥んこになるでしょう。


コースの周りは、うっそうと木が茂っています。

簡易トイレには、たくさんのステッカーが。
4.浅間記念館
浅間火山博物館の隣に浅間記念館があります。
入り口にあるガソリンの給油機は火山レースの際ハイオクガソリンをレースマシンに給油したものです。館内には浅間火山レースを走ったオートバイや貴重な写真、メグロ、ライラック、陸王といった今は無きメーカーのフラッグやポスターが展示してあり、往時を偲ばせてくれます。

5.二人の天才ライダーのこと
 第一回の高原レースで彗星のように現れたのが伊藤史朗(ふみお)です。250ccクラスでライラックに乗ったまったく無名の16歳の伊藤少年はホンダなどメーカーの強豪をおさえて優勝してしまった。伊藤少年の出場は、第2京浜にめっぽう早い少年がいるという噂を聞きつけた販売店の経営者の推薦によるものだった。年齢から考えてもどうやら無免許でずいぶんと乗り回していたらしい。第二回の火山レースにはヤマハのライダーとして出場し中盤まで抜群の速さを見せトップを走るがマシントラブルにより途中棄権。翌年のクラブマンレースにはBMWで出場、オープンクラスで途中までトップに迫る走りを見せるが転倒などにより9位に終わる。第三回の火山レースでは高橋国光とデッドヒートのすえ優勝をかざった。翌年からは世界GPに挑戦、ワークスではなく単身BMWを駆って日本人として500ccクラス最初のWGPポイントを得ている。その後ヤマハのライダーとしてWGPに参戦。1963年には日本人初のマン島TT表彰台に上がるのである。身長178cmの大柄な体で強引なライディングはおおいにファンを沸かせたが、1964年マレーシアGPの転倒事故により頭部負傷、その影響かその後の走りに精彩を欠き、その年の日本GPを最後にレース界を去った。ライダーとしての栄光の一方で悪い噂も絶えず、ついに拳銃不法所持などが発覚し警察の追及を逃れアメリカへ出国してしまった。

 もう一人浅間が生んだ天才ライダーが北野元(もと)である。1959年には第二回クラブマンレースと第3回耐久火山レースが共催された。18歳の北野少年はアマチュア対象のクラブマンレースで並み居るベテランを抑え125ccクラスと250ccクラスで優勝し、さらにクラブマンレース3位までに与えられた耐久レースへの招待資格をもって、ワークスに混じり優勝候補のホンダ勢を抑えて250ccクラスで優勝してしまう。その時の2・3・4位のホンダはこのレースのため絶対の自信を持って新たに開発されたRC142、一方北野少年は旧モデルの市販車SS92であった。
ホンダにしてみれば自車が1位から4位まで独占したとはいえ、旧車に乗った小僧一人にこてんぱんにやられた気分だったろう。
その後北野はホンダのライダーとしてWGPに参戦し何度も入賞をはたした。1964年からは日産の四輪ドライバーとして活躍し、何度も表彰台に上っている。

さてこの二人の天才ライダーをモデルにしたと思われるのが、大藪晴彦「汚れた英雄」の主人公北野晶夫である。「汚れた英雄」は大藪晴彦が1969年に発表した長編小説であり、当時のバイクブームや大藪独特の危険な世界観とあいまって大変な人気となった。後に草刈正雄をキャスティングし映画化されている。
北野晶夫は浅間でデビューし、その天才的なライディングと、美貌を武器に金持ちの女性を踏み台にレースの世界での成功と莫大なお金を手に入れていく。「北野」という名前からは、北野元がそのモデルなのかなとも思えるが、国産ワークスではなく、BMWを駆って単身WGPに参戦したくだりや、私生活に悪のイメージをもっていた主人公の描写からは、伊藤史朗がモデルになっているような気もする。
いずれにせよ、当時のオートレーサーは若者のヒーローでありアイドルであったことは間違いなく、浅間の注目度も今では考えられないくらい大きなものであったろうと思えるのだ。
 

浅間記念館入り口、Shellの給油機がお迎え


ホンダベンリィCR71、第3回火山レースに投入された

メグロRZ、第二回火山レースで優勝

ホンダCB92第3回火山レースで優勝

メグロ、トーハツなどのチームフラッグ
コース検証ページへ

karuizawa play land Kitakaruizawa golf club asama crair riding circle Takeuchi golf Milkmura Pension EDEN Shougestuko Daigakumura