北軽井沢の歴史



北軽井沢の歴史を語るとき、特に興味深いエピソードが多いのは
「草軽電鉄」についてである。
草軽電鉄とは、その名前が示すとおり、 草津と軽井沢の間を結んでいた鉄道であり、
昭和37年に廃線となった今はなき幻の高原鉄道とでもいうべきものである。


上の写真はかつての草軽電鉄・北軽井沢駅である。 私は昭和34年生まれで、ものごころがついたときには、 すでに草軽電鉄は廃線になっていたが、駅のホームは原形を とどめており、線路敷は私たちの通学路で、駅舎は私たちの 格好の遊び場所であった。 現在も、駅舎は残っていて喫茶店の店舗として利用されている。
草軽電鉄は、大正4年に新軽井沢−小瀬温泉間で営業を開始した。 その後、大正15年には草津までの全線が開通し、「四千万尺高原の遊覧電車」 をキャッチフレーズに、草津温泉への湯治客や北軽井沢への別荘族を運び、 おおいににぎわった。

映画の舞台となった草軽電鉄


草軽電鉄は、高原列車という、その情緒あふれるイメージからかたびたび映画に登場している。 昭和6年の「マダムと女房」は、日本初のトーキー映画として人気女優の田中絹代が主演し、 その舞台である草軽鉄道が全国に知られるきっかけとなった。
昭和25年の「カルメン故郷に帰る」(左写真)木下恵介監督・高峰秀子主演は、日本初の カラー映画としても話題をよんだが。その全編に流れている美しい高原の風景こそが北軽井沢の それなのであった。
余談になるが、「カルメン」の撮影時、私の祖母が営んでいた旅館(現・地蔵川ホテル)に、 ロケ隊が宿泊していて、私の母は、高峰秀子から小物入れをもらい、それを大事に持っている。
その後も、昭和32年の「月がとっても青いから」菅原都々子主演、昭和34年「山鳩」森繁久弥・ 岡田茉莉子主演など多くの映画の舞台として紹介された。
現在の状況からは想像もつかないが、映画が最高のメディアであった時代に、その舞台として 扱われるということは、非常に大きな影響力があったと思われ、高原列車は美しいイメージと あこがれを当時の人々にもたらした。


廃線・モータリゼーションの波と天災


草軽電鉄は、山間を走る路線であったことから、始めからその輸送力の貧弱さという、欠点を かかえていた。登り勾配になると、人が歩くほどのスピードしか出ず、飛び降りた乗客が用を足して、 また乗り込めたなどというエピソードが残っているほどであった。また、その構造上風水害にも弱く、 送電線の断線・路線の崩壊・豪雪などにより、たびたび運休となった。
昭和20年国鉄長野原線(現JR吾妻線)が開通し、草津温泉への客は、国鉄−バスに 移行した。
昭和30年代になるとバスの大型化が進み、草軽電鉄の乗客は減少し、経営は悪化していった。
廃線の致命的なひきがねになったのは、昭和34年の台風7号による被害であった。吾妻川の橋梁が 流失し、軽井沢の車庫が全壊となり、実質的に廃業に追い込まれたのである。


浅間火山レース(日本レース界の黎明期)

昭和34年8月22日から24日にかけての、浅間火山レースは、浅間高原レース場で開催され、 延べ数万人の人出で賑わった。
その後の日本モータースポーツ界のスターとなる、星野一義、 高橋国光らのデビューは、ここ浅間火山レースであった。
やがてモータースポーツのメッカは、富士などのサーキットに移っていった。それでも、 昭和50年代まではモトクロスの全日本選手権が行なわれるなどしたが、今では厳冬期のラリー のSSが設けられるにとどまっている。
日本モータースポーツ発祥の地としてのなごりとして、春・秋に浅間ミーティングで多数の バイクが集まったり、火山レースの記念館が開設されてはいるが、私としては、幼いころに聞いた 何百台ものバイクのエンジン音が懐かしく、北軽井沢に再びレースの賑わいが帰ってきてはくれ ないものかと思うのであった。